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竜野歴史資料館には関口家に伝わる小笠原流の弓術伝書のコピーが存在します。
この伝書には、射法だけでなく弓術のおこりなどが説明されていて、犬追物などの説明などもされていて非常に興味深いです。
残念ながら劣化が激しく読むのは困難な個所も多い。
この関口家は、「関口 弥五左衛門 久重」を祖とする一族で、150石を貰う上士でした。
そのため、関口家には数多くの武術伝書が残されており、その中には「上村発明流棒術」の伝書もあり、龍野藩における「上村発明流棒術」を調べるうえで大変貴重な家となります。
残念ながら、未だご連絡がつかない状態で(神主の家系なので所在地はわかっていますが)出来ればこの小笠原流と一緒に報告したかったですが、少し先のことになりそうなので、まずは小笠原流の伝書のみをご紹介します。
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龍野藩における山本勘介流は、山本家が指導しました。
龍野歴史民俗資料館には、その伝書のコピーが現存します。
溝江家文書として残された数代にわたる起請文を見ると代々、山本家が伝えていたことは明らかです。
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しかし、最後の山本家の相伝者「山本 武」は、実は「長尾 武」という人と同一人物で分限帳を見ると長尾家から山本家に養子入りしたことが分かります。
しかし、何故か「長尾 武」「山本 武」は山鹿流の「山鹿 八郎左衛門」とその子「山鹿 小藤次」から山本勘介流を習っています。
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山本家に「長尾 武」が養子入りした時、山本家には当主源之丞が存命中で山本勘介流を直接習えたと思います。
「山本 武」は、天保14年に養子入りし、同15年に家督230石を相続し、同時に軍学師範を命じられます。
最初の免状は天保2年に「山鹿 八郎左衛門」から。
次の免状は天保15年に「山鹿 小藤次」から。
やはり年代的には、「山本 源之丞」から習えたはずです。どうして山本勘介流を山本家からではなく山鹿家から習ったのでしょう?

龍野藩には「無山(三とも)示現流」と言う示現流が学ばれました。
この系統は、熊本藩の「寺見流」と「三谷 角太夫」までほぼ同じ系譜なのでこの流から出た事がわかります。
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本家の示現流では、神道流から出た「天真正 自顕流」を京都で「善吉和尚」より「東郷 重位」が学んだと伝えられています。(後に示現流と改める。)
龍野藩伝「無山示現流」の伝説は、熊本の「寺見流」の伝説と「甲野 善衆」(善吉和尚の偽名。)が霧島山に3年3月籠って編み出したと言う伝承も一致しているので、やはり同系統なのでしょう。この流は、示現流ではなく、「神影流」から出たとも言われますが、「神影流」と形名は全く一致しない。その上、本家「示現流」とも一致しない。
一体、どういう流儀なのでしょうか?
因みに修行年数にある3年3月とか同じ数字が続くのは、世界中の伝説に見られる特長で、数字の数には特に意味がなく、同じ数字を繰り返すことで呪術的効果をもたらせる意味があります。
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2代目の「瀬戸口 肥前」は、「東郷 重位」のことです。一説によりますと東郷家は、瀬戸口家から出たと言う。(※一説と言うより、どうも正しいようです。)

龍野藩に伝わったのは、「竹内 甚兵衛」の代から。
この人物は、龍野藩主に脇坂家が入封する前に脇坂家に仕えました。分限帳によりますと竹内家は、元は、伊勢の出です。甚兵衛は、「脇坂 安治(1554-1626)」に仕え知行150石でした。甚兵衛の仕えた安治は、「東郷 重位(1561-1643年)」と同時期の人なので「竹内 甚兵衛」は、もしかしたら重位と面識があったかもしれません。
次の代の「竹内 喜左衛門」は、甚兵衛の息子で、彼の代で龍野藩主に脇坂家が藩主におさまります。
武芸流派大辞典には、今回ご紹介した伝書の系譜とは別の系譜が載っているので、ついでに龍野藩の系譜をご紹介します。

9代目「鳥飼 市郎兵衛」から龍野藩士です。この人物は、上で紹介した「竹内甚兵衛」の実孫で鳥飼家の跡継ぎ養子に入りました。鉄砲頭200石でした。

10代目「竹内 喜七郎」は、養子に出た「鳥飼市郎兵衛」の弟で竹内家の家督を相続します。つまり9代目10代目は、実の兄弟なのです。

11代目「竹内 喜平」は、9代目10代目の従兄弟です。「竹内 喜平」の父親は、「竹内 喜左衛門」の息子です。「喜平」は、6代目藩主「脇坂 安興(1722年-1747年)」に仕えました。

12代目「竹内 庄蔵」は、11代目「竹内 喜平」の弟です。30俵2人扶持で召し抱えられましたが、若くして病気で亡くなります。

13代目「竹内 孫三郎」は、10代目「竹内 喜七郎」の息子で、分限帳には天明4年に家督を継ぎ120石で用人。示現流を父子相伝し、門弟を取ったとあります。

14代目「鳥飼 市郎兵衛」は、9代目の「鳥飼 市郎兵衛」の孫です。150石でした。

15代目「竹内 喜七」は、13代目「竹内 孫三郎」の息子。天保5年に家督を相続します。

16代目「鳥飼 勝左衛門」は、14代目の息子です。使番130石でした。

17代目「竹内 邦蔵」は、15代目の息子です。
18代目「脇坂 兵太」は、分限帳に見かけないので幼名であろうかと思われます。

以上を見ると、武芸流派大辞典の龍野藩伝「無山示現流」の系譜は、今回、ご紹介した巻物にある「竹内 甚兵衛」の血族の系譜であり、代数こそ多いですが、竹内家と竹内家から鳥飼家に行った一族、それぞれ同世代の皆伝者が列記されているから代数が多いように見えるものだとわかります。ほとんどの場合、師弟関係ではなくて、兄弟弟子だったわけです。

しかし、「東郷 重位」の時代から脇坂家家中の武士に幕末まで絶えることなく脈々と引き継がれた貴重な武術だった事がわかります。
因みに武芸流派大辞典では、龍野藩伝では、「無山」とせず「無三自現流」としたと書かれていますが、「竹内 甚兵衛」が書いた伝書や分限帳には、「無山示現流」と書かれているので、特に字に拘りが無かったように思います。
この巻物には、形の詳細も載っているので復元可能かと思われます。



日曜日に水月塾の本部稽古会に参加しました。
とにかく暑い中での稽古ですから、水分補給は欠かせません。一日の稽古で四リットルは、飲んだのではないでしょうか。

稽古内容は、これまで習った荒木流と神道無念流と力信流の復習と手直しをしていただきました。
力信流等は、共に稽古する人が地元にいないので、本部稽古でなければ合せが出来ないのが辛いところ。貴重な稽古となりました。

稽古以外では、近況報告や持参した伝書を見ていただきました。
伝書は、逆に小佐野先生が所蔵する神道六合流の巻物を拝見させていただきました。
これが菊の御紋が入っており、とても衝撃的な巻物でした。大正だからこそ出来たことではないでしょうか。
非常に貴重な物が見れて良かったです。
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たつの市には龍野藩の伝書である「山本勘介流兵法」の伝書のコピーが保管されています。
原本は存在しておりますが、私はコピーを拝見しました。
龍野藩の山本勘介流は、山本家が代々伝えたために起請文までのこされてあります。
明和~天保まで9人分の起請文を拝見しましたが、当然ながら文章は全てまったく同じ。
昔の人は、武術一つ習うのに神様に誓いを立てなければいけませんでした。
科学が常識の現代では考えられないような拘束力があったのでしょう。
仮に不信心なものがいたとしても、証文は証文。十分な効力があったでしょう。

起請文はそれぞれ自筆だったので当然、全ての字に書いた人の個性が出ています。私などは書いた本人すら何を書いているのか解析できないことがあるほどの達筆ですから、師匠から「書き直してこい、この大ばかやろ~う!!」と突き返されていたことは間違いありません。
パソコンで文章が書ける現代って本当に素晴らしいですね。
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