7月28日の稽古は、休みとなります。
それから8月からの稽古は、網干市民センター普通教室ではなく、同じ網干市民センター内の会議室に変更になります。
お間違いないよう、よろしくお願いします。
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三日月の竹内家には、荻野流以外に心極流の免状が伝わっています。
花火の伝書
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江戸期には、砲術が花火と共に伝わるのが普通だったそうです。

続いて薬法
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竹内 六太郎宛の物ですが、どういう経緯か、竹内家には、これより大分古い人宛の免状が伝わっています。
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「安東 村右衛門様」と書かれています。(安東村 の右衛門様宛と勘違いしていましたが、師匠からご指摘をいただきました。安東さん宛でした。)
この免状が伝わった経緯がわからないので何者かわかりません。

三日月藩では、米村流と荻野流の砲術が学ばれました。
竹内家には、竹内 六太郎が授与された荻野流の免状が薬方を含めると五巻保存されています。
その中から系譜も書かれている目録をご紹介します。
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系譜は、まだ詳しく調べがついていません。
三日月の日岡八幡神社には荻野流(荻埜流)の奉納額が掲げられています。しかし、この中には、竹内を含め免状の中にある人達の名前は見つかっていません。
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三日月の竹内家には、変わった槍の絵図が描かれた伝書が伝わっています。
流儀名が書かれていません。
しかし、系譜を見るとこれが山崎藩藩士「丹波 三郎」から竹内 仙之助に出された物だとわかります。山崎藩と三日月藩の武術交流の深さがわかります。
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丹波三郎は、10石2人扶持を貰っていた山崎藩の中士でした。
実は、この「丹波 三郎」は、「竹内 仙之助」が天保年間に行った廻国修行で試合をした対戦相手でもあります。
「丹波 三郎」は、何故か義経流と言う東北の流儀を修めていました。
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東北で学ばれた義経流は、今のところ山崎藩の記録でも見つかっていないので、「丹波 三郎」が独自に学んだものと推測されます。しかし、もしかしたら東北の義経流とは、縁もゆかりもない播州発祥の同名異流の可能性も当然ありますが。
それはともかく、この「丹波 三郎」と「竹内 仙之助」。この時の試合でよほど気があったのか、それとも「竹内 仙之助」が敗れたのか、元々友達だったのかは知りませんが、ともかく「竹内 仙之助」は、天保の試合のあとに「丹波 三郎」からこの免状をもらっていることがわかります。「竹内 仙之助」は、直心影流剣術と祭神流槍術を修めて廻国修行を許されるほど優れた武術家でした。廻国修行は、その旅費を藩が負担してくれると言う厚待遇ですから、「竹内 仙之助」が三日月藩でトップクラスの実力者であったと言えます。その「竹内 仙之助」が頭を下げて習うのですから、対戦相手であった「丹波 三郎」の実力も相当優れていたのでしょう。。

更に面白いことにこの「丹波 三郎」の子は、養子で赤穂藩種田流槍術師範「飯尾 精之進」の弟と言うのだから、驚きです。
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画像は、赤穂藩種田流槍術師範の「飯尾 精之進」を讃える奉納額。(相生市にある若狭野八幡神社に掲げられています。)

三日月藩~山崎藩~赤穂藩の槍術は、この「丹波 三郎」を中心に繋がっていた一面もあったのです。この関係性は、この伝書と山崎藩分限帳のお陰で判明しました。
我々武術家が正しい武術史を知ることが出来るのも、全て古文書を保管して下さった人のお陰です。

明治期の廃藩置県後の処理のため旧山崎藩藩士の記録が残されています。また山崎藩陣屋周辺の地図も天保のものと明治のものが残されており、幕末~明治の人々の坪数を知ることが出来、書かれた坪数はその数字です。江戸詰めをしていた人は、すむ地域が決まっていたので分かりやすい。
更に慶應二年以前に活躍していた人は、諸々の記録の中でその名を見ることが出来ます。

・横野 唯七郎 慶應3年正月11日に召上。300坪10石2人扶持
・大野 但見 明治二年正月11日に召上。160坪 10人扶持
・秋田 豊 元治元年6月12日に召上。328坪60俵5人扶持
・伊藤 錫 天保4年7月27日に召上。307坪7分11石3人扶持。
・下村 三吾 父親の三吾は上村発明流棒術の師範。文久二年正月11日に召上。174坪7分7石2人扶持
・冨和 捨蔵 安政7年正月11日に召上 。元治元年の長州征伐参戦している。 35俵3人扶持。「天月万像紅葉巻」の不破忠左衛門の子孫。不破家は、剣術槍術砲術に優れた
・箭中 新八 天保9年正月11日に召上。107坪10石2人扶持
・西川 覚馬 明治元年9月26日に召上。168坪江戸詰
・磯部 斧太郎 慶應元年12月7日に召上。180坪2分9厘40俵3人扶持
・福原 衛 明治3年正月11日に召上。202坪5分
・生田 常治 文久4年正月11日に召上。159坪8分
・遠藤 東太郎 明治2年正月11日に召上。7石2扶持
・毛利 熊太郎 明治4年正月12日に召上。357坪
・桑田 百治 嘉永4年正月11日に召上。8石
・倉橋 龍衛 明治二年正月11日に召上。2人扶持
・佐野 清七 龍野藩
・藤平 周蔵 嘉永元年正月11日に召上。108坪4分4厘江戸詰め 2人扶持
・伊藤 久馬 元治元年7月12日に召上。 592坪9分
・阿曽 頬蔵 文久3年8月7日に召上。 107坪2分
・熱田 相馬 明治二年正月12日に召上。代官の家系。
後見人
・小野 捨馬 150石嘉永7年正月11日に召上。1197坪6分
・本庄 丈平 安政6年正月11日に召上。5石2人扶持

以上を見る限り唯心流柔術奉納額は、中士で埋められています。
今回のような複数の資料を元に総合的な記録を探すのは、時間がかかり大変ですが、とても楽しいですね。龍野藩の奉納額も全て調べ上げたいものです。