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江戸時代、武士以外の身分の人は、どこまで武術を学ぶことが出来たのでしょうか?
よく「農民は、柔、棒術まで」と言うような言葉を目にします。また、百姓は、武術を習うことはできても免許皆伝となり、門弟を独自にとることは出来なかった、と言うような説も見かけます。もっと細かに言うと「⚪⚪流は、百姓剣法」等と言うような流儀によって身分が別れるようになっているかのような言葉も聞かれます。
また「柔」「棒術」に至っては、下級武士の武術とも見られがちですが、実際に武術種目、流儀によってそのように階級や身分が分けられていたのでしょうか?

実際は、そのような格差は、無かったと思われます。
例えば、姫路藩の記録によりますと、延宝3年(1675年)に百姓45人が「砲術」を習いたいと申し出て指南を受けることを許されています。柔、剣術どころか「砲術」さえ、百姓は、習うことが出来たのです。さらにその内の25人は、腕が立つので足軽同様に扱うように達せられ、鉄砲15丁が貸し与えられ稽古に励んだとのことです。鉄砲等は一種、藩の財産であり、これを百姓に貸し与えて稽古することを許されると言うのですから、百姓だからと言って、武術を学ぶ事を差別されると言うことは、建前上、あったとしても実際にはなかったのでしょう。いわゆる「有るけど無い」状態です。

また、山崎藩の例を見ますと、陣屋の有る「鹿沢村」と言う所では、「十助」と「兵二」と言う名字帯刀も許されない百姓の教える一刀流の門人に「無麻 左源多」「一山 渥三郎」「橋石 廣蔵」と言う武士がいた事が記録されています。
例え武士であっても稽古場の中に入れば、百姓の門人であり、農民も武士の門人をとることが許されていました。
農民と言っても、中には「大庄屋(おおしょうや)」「庄屋」等は、元々は、武将だった一族も多く、赤穂藩では、大庄屋「柴原家」が自宅に赤穂藩馬術師範「林 唯右衛門」を呼び寄せ、定期的に馬術を習っていた記録があります。
足軽、徒士等と言う言葉が示すように、下級武士は、馬に乗れませんでしたが、大庄屋ともなれば、馬術を習うこと出来ました。これは、龍野藩内の大庄屋「八瀬家」も同じことでした。

また、三日月藩では、「春名家」が赤穂藩、三日月藩、山崎藩、姫路藩の藩校で正式採用されていた唯心流柔術で門人を取っていましたし、岩筒男神社弓術奉納額が示すように、農民も弓術も学ぶ事が出来、柔術で門人を取っていました。
身分によって学べる流儀が限定されるようなこともありませんでした。

また姫路藩の新陰流の藩校師範「明珍 源蔵」は、録を貰っていますが武具職人の一族であり、身分の違いが流儀や師範としての資格を決めることもなかったのです。

また流儀や種目について述べますと「一伝無双流」と言う他地方では聞かないような柔術流儀が播州では、上士から下士まで学ばれました。
三日月の日岡八幡神社に掲げられた「上村発明流」棒術は、山崎藩、三日月藩の下士達によるものですが上村発明流棒術自体は、山崎藩、龍野藩では家老、用人と言うような上士から下士にいたるまでの階級で広く学ばれていたことが残された巻物からわかります。
柔、棒術等は、姫路藩や三田藩の藩主が免許皆伝となるまで学んだ例を見ても、種目に差別などなかったことがわかります。
「ただ、学んだ層が多い」か「見つかっている記録の中では、そういう傾向に有る」と言うに過ぎないと言えます。
学ぶ人たちが学ぶ機会に恵まれていたか否かと言う所で地域性が生まれたと推測します。

武術流儀、種目に貴賎なしです。



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姫路藩の記録をまとめた「姫陽秘鑑」には、姫路藩における他藩との武術交流の決まり事が記されています。
姫路藩は安政4年(1857年)に他藩との仕合が許可されました。(余談ですが試合ではなく、仕合と言う当て字は、仕え合うと言う形を重要視する日本古武術らしいと思う。)

姫路藩以外でも他藩に赴き武術を習う、仕合する際には、上司に許可を貰う必要がありましたが、姫路藩の場合は、他藩へ出稽古に行ける人数は、五人に限られます。二流習う場合は、七人まで習いに行くことが出来ました。その際、習う人以外に世話役が二人まで同行出来ました。
山崎藩には、安政年間に姫路藩から5人訪れて剣術を稽古した記録がありますが、その通りのルールが守られています。
また、仕合や武術を習う事は、公務のうちであり、試合を行ったものは、仕合帳を持参して、試合相手の名前を控えておくように決められています。
これは、全国共通のことではないでしょうか。
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(画像は、三日月藩における他藩との仕合帳)
そして、武術を習いに行く、又は仕合するときの心得として軽薄な「卑劣」「卑怯」「無礼」等無きよう心得ておくべしと強く注意されています。
また旅中、宿に泊まった際の飲酒も禁じられていました。
他藩領へ武術を習いに行くのは、公務のうちであり、軽率な行動はとれませんでした。
姫路藩の場合、文久元年(1861年)に、一刀流、関口流、柔新心流、唯心流柔術は、減流されてしまいましたから、それまで藩校で習っていた武士達にとっては、かなりの痛手だったと思います。それら全てを学べる山崎藩へ公務扱いで行ける出稽古は、渡りに船であり当然、心踊るものがあったでしょうが、旅費は、藩が負担してくれるぶん、習いに行けるのは、実力者5人のみで限られていました。
現代と違い武術を習う事は、そう簡単ではなかったのです。

本日の稽古で門人二人が天心古流拳法の奥伝まで進みました。
私が教えた人で奥伝まで進んだ人は、このお二人が初めてです。それまでの人は、奥伝に行く前にやめてしまいました。
私が悪い部分もあるでしょうし、門人個人にそれぞれ事情があって続けられない理由があったこともあるでしょう。
しかし、お二人は、一年半年過ぎたところですが奥伝まで進めることが出来ました。私も今日、初めて人に教える形であり、教えていて「とうとう、ここまで学ぶ人が来た」と、思うと嬉しく思いました。
お二人は、天心古流と合わせて日本柔術も学んでいるので、少し負担が大きいかと思いましたが、柔術への関心が強いので、問題なく進めることが出来ました。
お二人とも10年以上の他武道経験者でとても真面目です。年下の私の事もちゃんと師匠として扱ってくれています。簡単そうで難しいことと思います。
武術を学ぶ人が大切にしないといけないことは、武術に対する姿勢だなと本日の稽古を終えて改めて思いました。


荒木流の荒木樂山は、自著の中で稽古に対する心持ちについてこう述べます。
「一年、半年にて三年も五年も修業したる者と同様に成りたいと思うは、欲である。又五年や三年稽古したる者が二十年も三十年も稽古せし者と同様とならんとするは、これも大欲と我心と見栄である。
中年より稽古を始める者は無暗に成功を急ぐゆえに良き所もあるし、悪しき所もありて、その稽古上に不備の点が多くある。」
年配の方が多い当会ですが、武術の稽古に焦りは禁物。ゆっくりでも確実に前進して行きましょう。

居合道の昇段審査で不正があった。
昇段審査に受かるためには、650万円の金を要求し、あげくの果てに「誠意やないか」等と意味不明の言い訳をするものまでいる始末だとか。
「剣道連盟に所属する武道家にとって誠意って金のことか?」と、突っ込みを入れたくなる。

しかし、そもそも段位に限らず目録等の免状も「審査」を受けて師匠から「取得(権利をとる)」するものでは、ありません。
長年の稽古を正当に評価した師匠から「授与(授かる)」されるべきものです。

勿論、このような師匠からの一方通行なやり方では、師匠が門人の選り好みをして不当に免状を授与されなかったり、逆に依怙贔屓が起こる可能性があります。
それを回避するために「審査」が必要になってくるのかもしれませんが、どのみち組織が大きくなると腐敗が起こります。腐ったミカンと同じように師が腐れば、門人も腐って行き賄賂をお互いが利用するようになっていくのです。

師匠は己を律し、感情で門人を選り好みや依怙贔屓をしないことを心掛け、門人には、正当な評価をして、免状を授与しなくては、いけません。
不正を起こさないようにするために必要な事は、全て師匠の人間性にかかっていると言っても過言では、ありません。
だからこそ門人は、師匠を良く選ばなくてはならないし、師匠は、思い上がっては、いけないのです。

今回の不祥事から習う側の人間が得るべき教訓は、「金をふんだくりにくる組織は、すでに師匠ごと腐っているから辞めてしまえ。」ということです。

因みに当会は、不正が起きないように、最初から流儀毎に習得期間を予め設定しています。一ヶ月に最低でも3手以上は、指導して進めていき、全ての手数を指導し終わったら、三ヶ月~半年の復習を行い、その後に免許を出すと門人に公言しています。違えようがないルールです。
師匠は、師匠なりに己自身に違えようがないルールを作るべきだと考えています。
この世に聖人君子など存在しない。誰もがいつか腐る可能性があるのですから。