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赤穂藩の藩校で学ばれた高木流柔術の免状は、現在、赤穂市に
「高木流體術捕手目録」
「陽之巻」
「虎狼之法」
「カエシノ法」
の4巻が保存されています。
今回は、その中から目録を紹介します。
現存する高木流とは内容が若冠異なるようです。もしかしたら現在「唯一、現存する」高木流の系統の主「大国 鎌治」という人は完全相伝の人ではなかったのかもしれません。
また、一般的に竹内流から派生したと知られる高木流ですが、何故か赤穂藩では、高木流は揚心流の一派として伝承されていました。そうすると「本体楊心高木流」という名称も、赤穂藩においては、よくある「柳の枝が折れない」という事に由来する伝承と違い「高木流の本体は揚心流である」という意味で伝わっていたのかもしれません。

しかし、高木流が楊心流から派生した流儀と言うのは、少し納得がいかない。何故なら赤穂藩藩校での種目は「腰廻」と表記されているからです。
これは、高木流が竹内流の仲間であると藩内で認識されていた証のようにも思えます。何故、このような伝承があるのか、今後の調査課題としておきます。


それから系譜を見ると現存する高木流のそれとは、異なります。また、これ以外の系譜も存在するので、高木流は、別に宗家制度など採用してなかったことは、明らかです。
更に平成の世まで赤穂の地では、代々、直系の高木流が伝承されていました。
現在、宗家を名乗る高木流が多くあれど、高木流の宗家を名乗る資格など最初から誰にも無かったのです。高木流の免許皆伝者は、全員、それぞれ対等な師範であるべきです。つまらない宗家争いなど醜態をさらすだけです。
それからよく語られる明石の系統の「八木 幾五郎」が「蛮社の獄に連座した罪で赤穂藩を追放になった」記録などやはり存在しない。明石の地において「大国 鎌治」の系統の高木流を指南した「八木 幾五郎」とは何者なのでしょうか?

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三日月藩の一刀流の免状を紹介したので、良い機会なので同じ森家が治めた赤穂藩伝の一刀流の免状をご紹介します。
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系譜を見ると前回、ご紹介しました三日月藩伝の一刀流とは異なる系譜なので関連性は感じられません。恐らく竹内家に伝わる一刀流の免状は、三日月藩とは関係なく何かのご縁で竹内家に来たものと思われます。
また今回ご紹介する免状の系譜の中に山下姓の方がおられますが、
今回の免状の持主である小山家には、山下家に伝わる「高木流」の伝書も保管されていたので血縁関係があると思われます。
山下家も小山家も高木流柔術だけでなく、「猪俣 弾正忠信昭」が創流した「唯心流柔術」を伝えましたが、今回の一刀流の免状に「猪俣 太仲祐信」が記載されています。恐らく同じ猪俣家の人でしょう。
一刀流と唯心流は、赤穂藩、三日月藩、姫路藩、山崎藩で学ばれました。山崎藩には、唯心流の奉納額が現存するので次回にご紹介します。
さて、系譜の中に「辻 源太」と「辻 隆平」のお二人の名前が記載されています。辻源太は、隆平の亡くなった翌年に家督を相続しているので、親子のようです。(家督は、喪が開けた後に相続する。)

辻 隆平(源太➡隆吉➡隆平)
天明9年(1789年)~寛政2年(1790年)に大坂御留主居役
文化13年(1816年)御作事奉行、桂介様御付
文政7年(1824年)十分一奉行
天保12年(1841年)に御給人。
嘉永5年8月27日没。
この人物には、武勇伝があります。
隆平が亡くなる8年前の天保15年4月22日夜に御金役所に盗賊が忍び込んだところを取り押さえたというのです。これがとても奇特な事だとわざわざ分限帳に記されています。唯心流の業で取り押さえたのでしょうか?高木流の業で取り押さえたのでしょうか?
非常に気になります。一柔術家として胸踊らずにはいられないところです。もし私と同じように地方の歴史にさして影響のない窃盗事件逮捕という小事にどのような業が使われたのか、興味津々になったあなた。人は、それを病気と言う。しかも不治の病です。お大事に・・・・・・。

辻源太(亀平太➡源太)
天保15年(1844年)に召し出されます。
嘉永6年に家督相続。また、御札座奉行に。
明治3年に上の免状を出します。
色々歩き回った結果、赤穂に辻源太が建立した彼の妻のお墓を見つけました。人知れず朽ち果てて行くのは忍びなく、ご紹介します。


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去水流で検索をかけると高確率で「深尾角馬」と言う人物がヒットする。
この人物は、鳥取藩の武術の主(ぬし)と言っても過言ではないかもしれない。
丹石流、去水流、東軍流、卜伝流、神道流、新陰流、タイ捨流、岩流、戸田流を修めたと言う達人のようです。

しかし、去水流に関しては時代的な疑問が少し出てきます。

都筑安右衛門は、津山藩が改易した元禄10年(1697年)までの分限帳に既に名前があります。
小姓で250石ももらっています。小姓で250石ならば、父が亡くなるか隠居により家督を相続したのでしょう。それでも250石とは、大変なもので藩主からの寵愛の程もしれます。浅田九郎兵衛が喧嘩を売るとは、思えない。
彼は、津山藩改易後に赤穂藩に召し抱えられ、享保15年(1730年)に隠居するまで働きます。

都筑安右衛門の師匠は、林多左衛門は元禄4年(1691年)に亡くなります。
師匠 林多左衛門1691年
弟子 都筑安右衛門1730年
都筑安右衛門は、師匠亡き後、39年勤めたことになります。師匠と弟子の差としては、何の問題もありません。
きっと林多左衛門にとっても水鴎流の三間与一左衛門にとっても都筑安右衛門は可愛い子供のような存在だったでしょう。

しかし、深尾角馬の場合は、林多左衛門より9年早い天和2年(1682年)になくなっておられます。
都筑安右衛門は、彼の死後、48年森家に勤めたことになります。
それでは、深尾角馬が都筑安右衛門に去水流を習ったとき、都筑安右衛門は、何歳だったのか?と言う問題が出てきます。12才ならば、隠居した年は60才なのでさほど問題ありません。しかし、深尾角馬は、51才で亡くなっています。12才の子供に習うことはありえない。
都筑安右衛門がその時仮に22才ならば、70才で隠居と言うことになります。(深尾角馬の修業年数は不明なので好意的解釈で一年未満として計算から外します。)
江戸時代にしては、かなり高齢ですが、可能性は、ゼロではないとは思います。しかし、深尾角馬の年齢と都筑安右衛門の年齢を考えると少し疑問が生じるでしょう。

さて、都筑安右衛門の去水流についてもう一つ疑問があります。それは、やはり、師匠の名前が林太郎右衛門となっていることです。彼は、都筑安右衛門の新陰流の師範であるとされています。(実際は違う。)
津山の林家で最も彼に近いイメージの人として、都筑安右衛門と同世代の人で津山藩改易後に三日月藩に行った「林太郎兵衛」の名前が浮かびます。
林太郎兵衛は、森助太夫と言う人物の子孫で森助太夫は、森家に仕えるさいに藩主に遠慮して木の文字を1つとり林姓に改め林九左衛門と名乗ります。
林太郎兵衛は、その林家三代目にあたり、津山新田藩の一代限りの藩主で後に三日月藩初代藩主となった森長俊に仕えた人物です。

林太郎兵衛は、竹之内流腰之廻の達人で、祭神流、直心陰流の達人であった井上源左衛門と並び三日月藩の武術の祖と呼ばれています。
林太郎兵衛の名は、三代続くので後に三日月藩の御流儀直心陰流を学んだことは、想像に固くない。
林多左衛門が後の世にこの林太郎兵衛と混同され林太郎右衛門になった可能性は、とても高い。

余談になりますが林家、井上家と同時に森家に召し抱えられた一族に天心流の井上壽之丞の父親の今村又右衛門の一族がいます。
三家の祖は、四百石の高禄を貰っていたにもかかわらず、元禄の津山藩分限帳には、名前が載っていないところを見ると、この三家は、本家津山藩に仕えた都筑安右衛門とは、違い、津山新田藩に召し抱えられていたことがわかります。

赤穂藩伝「去水流」の免状は3巻あり、いずれも流祖都筑安右衛門によるものです。
享保14年に村上安之丞(村上貞八のこと)へ発行しています。
水鷗流の話に戻って申し訳ないですが、要するに村上貞八の時代に都筑安右衛門は健在だということです。隠居前ですが
免状や形の内容が水鷗流初代三間与一右衛門と違いはないでしょう。

さて、去水流の内容にもどりますと、いつも通り撃剣創談の記述は出鱈目です。
また、これを基にしたのかネットで散見される去水流の記述も本来の去水流とは、かけ離れてしまっています。
撃剣叢談には以下の通りの紹介分がある。
「去水流は、新影(流と)宝山流を合わせたる流れなり。去水は法の字を斥たるにや、其祖浅田九郎兵衛門人に都筑安右衛門と云うものあり。
多年宝山流に心力を委ね、浅田門下に及ぶもの無きほどなり。ここを以て家を望みけれども九郎兵衛許さず、大いに望みを失いて宝山流をやめ、
林太郎右衛門という新影流の師と計りて一流を創め、宝山如水を改めて新影去水流と云て人に伝授したり、(宝山流の浅田)九郎兵衛是を聞きて大いに憤り…以下浅田が二人を懲らしめる話になるので略する」

すべて出鱈目です。
去水流は「法」の字を基に出来てはいないし、都筑安右衛門の師匠は、林太郎右衛門ではなく林多左衛門です。
実はこの世代の津山藩士に「浅田九郎兵衛」も「林太郎右衛門」も存在しない。
浅田姓も林姓もこの世代の津山藩士におられるが、上記の人物はいない。
林も都筑も家格は、上なので浅田が喧嘩を売るとも思えない。

都筑安右衛門の師匠である「林 多左衛門」は郡奉行で元禄4年4月6日に亡くなっておられます。
林 多左衛門は水鷗流元祖三間与一左衛門と同世代の人物というわけです。
去水流の免状を見ればわかりますが、林多左衛門は、新影流の先生ではないし、都筑安右衛門の作った去水流も宝山流とは無縁の流儀だと私は思う。(形名は、一応ほんの数手程名前が重なるが、さほど珍しい言葉でもないので、これで新影流か宝山流かと決めるには、弱すぎると思います。)
撃剣叢談に「新影流」と書かれているからと言って信用してはならないのです。それが本当は片山伯耆流かもわからない。関口流かもわからない。
検証する前にそのまま正史のように扱うと後で必ず痛い目を見ます。

また同様に水鷗流の三間与一左衛門が浅田九郎兵衛に勝負を挑まれたときに九郎兵衛がどうやって勝つつもりか語った話を聞き及び「九郎兵衛は私が及ぶ相手ではない」とあっさりと負けを認める内容が書かれていますが、存在しない人物と実在の人物は戦うことができない。恐らくは、後の世の人が宝山流を勝たせたいがために作ったホラ話です。撃剣叢談が書かれた時代、すでに津山藩は森家のものではなかったので、調べることができずに聞いたままのほら話をそのまま書き記したのです。
撃剣叢談によりますと九郎兵衛は、居合の三間与一左衛門に抜かせて勝つと豪語したそうだが、居合と剣術をそのままの想定で試合を行ったというわけです。
実に下らん!


さて、それでは詳しい内容にふれてみます。
Wikipediaによりますと、初代三間与一左衛門は、「流祖は天正5年出羽国佐竹氏に仕える」となっています。出羽国は、現在の山形、秋田県があったところです。
しかし、赤穂藩伝の水鴎流では、全く異なります。「肥州唐津士」と書かれています。
現在の佐賀県ですね。

赤穂藩伝水鴎流は、三間与一左衛門から直接習った都筑安右衛門が伝えたもので間違える可能性は低いように思います。また代数や年数もそこまで時間がたっているわけでもないので、変質しにくいと思います。
由来についても、三間与一左衛門が「大円想の中に白鴎が無心に浮かぶ姿を想見し」とありますが、赤穂藩伝の伝書には、ある夜の夢の中で翁の啓示を受けたとあります。「或夜 夢一老翁曰 江南野水緑 於天中有 白鴎閑似我」

更にWikipediaには、「(浮かぶ姿を想見し~)忽然と大悟し、天の二十八宿に篭って居合法形二十八本を定め、これを基とし諸般の武術の妙を究めた。」となっていますが、実際の伝書には、表17ヶ条を表の居合とし、奥儀12ヶ条とし、合わせて29ヶ条となっています。28宿の事など当然、書かれていません。
当然、Wikipediaと形は、何一つ一致しません。

また、赤穂藩伝には、水鴎流が片山伯耆流との関係性を匂わすように書かれています。
赤穂藩伝の伝書は、三間与一左衛門から直接習った伝系であるのと同時にこの伝書が1740年です。

以上の事から、推測するにWikipediaに書かれた情報は、赤穂藩伝「水鴎流」とは、無関係の「水鴎流」の情報に思えます。

あとWikipediaには撃剣叢談にも「時に北国浪人三間與一左衛門と曰う者来りて居合を教授す。 」としている情報が書かれています。
全く撃剣叢談は、信頼度の低い古文書であると言わざるを得ない。こんなものを真に受けたら痛い目を見ますね。話し半分に読んで、後できちんと検証しなくては、いけません。
それにしても岡山藩士がこの程度の情報しか集められなかった点を考えると、天保の頃には、岡山県内の水鴎流は、絶えていたのかも知れません。

因みに、姫路藩にも都築姓が代々仕えているので、姫路藩でも水鴎流が学ばれた可能性は、あるかもしれません。
因みに姫路藩藩士「都築 与五右衛門(300石 御小姓頭)」が無辺流槍術師範であった記録があります。