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本日は、三日月にある日岡八幡神社の祭りで一年で唯一、奉納額が開放される日なので、再び見学に行きました。
すると、真っ黒で見落としていた竹内流の奉納額を見つけました。
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(こういう見えにくい場所にある奉納額は、暗くて見落としてしまいます。これからは、奉納額探しに出かけるときは、懐中電灯が必要ですね。)

奉納額のタイトルは、「竹内流捕手腰廻 土居武源治門弟」。
奉納された日は、文政10年(1827年)。以前、ご紹介した三日月藩伝「竹内流」奉納額より古い年代のものです。(天保14年(1843年)に奉納。)
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上は、前回ご紹介した分。
どちらの奉納額にも系譜が書かれていますが、8代目から、別系譜になっています。
前回分
初代「竹内 中務太夫久盛」2代目「竹内 常陸助久勝」三代目「竹内 加賀助久吉」四代目「竹内 角左衛門久次」五代目「竹内 藤一齋久政」六代目「竹内 兵助久光」七代目「竹内 意樂久氏」八代目「竹内 文平久延」九代目「羽根田 伊蔵義兼」十代目「西川 平右衛門久信」
となっています。
今回、新たに発見した奉納額の系譜は、
初代「竹内 中務太輔久盛」2代目「竹内 常陸介久勝」三代目「竹内 加賀介久吉」四代目「竹内 角左ェ門久次」五代目「竹内 藤市齋久政」六代目「竹内 兵輔久光」七代目「竹内 登八久氏」八代目「土居 金五右ェ門一純」九代目「可児 平吾正武」十代目「土居 武源正方」と、なっています。

七代目の「竹内 登八久氏」と「竹内 意樂久氏」は、同一人物でしょう。
しかし、八代目「土居 金五右ェ門一純」と八代目「竹内 文平久延」に別れます。
今回ご紹介する奉納額の系譜八代目「土居 金五右ェ門一純」は、三日月藩の天心流剣術、当用術の師範でもありました。元々は、三日月藩家老、用人の今村家の三男でした。兄弟に同じく天心流剣術、当用術師範の「井上 壽之丞」と用人「今村 又右衛門」がいます。
「土居 金五右衛門」は、当用術に工夫を加えて仕合形式の稽古をするようにした人物です。
九代目「可児 平吾正武」は、以前、ご紹介した三日月藩伝「祭神流槍術」奉納額の上段二番目にその名前があります。可児家は、三日月藩の筆頭家老の一族です。三日月藩では、筆頭家老の一族も柔を学び指導していたのです。
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十代目「土居 武源治正方」は、八代目の息子で、父と同じく竹内流腰廻、天心流剣術、当用術の師範ですが、さらに石堂竹林流弓術の師範でもあり、三日月には、いくつか弓術奉納額があります。

しかし、前回ご紹介した竹内流腰廻の奉納額の系譜は、八代目「竹内 文平久延」九代目「羽根田 伊蔵義兼」十代目「西川 平右衛門久信」となっています。八代目で三日月藩には、「土居 金五右衛門」がいるのに、まだ竹内家の人から学んでいます。
しかも、九代目の「羽根田 伊蔵義兼」は、「久」の一文字を名乗っていません。しかし、十代目「西川 平右衛門久信」と、再び「久」を名乗っています。不思議な感じもします。
しかも前回と今回の奉納額の年代は、それほど離れていないので、三日月藩内には、複数の竹内流の系統が同時に存在したことがわかります。
三日月藩の奉納額には、他にも複数の系譜、師範がいた証拠として、一つの奉納額の中に別の師範の弟子がいれば、名前の右上に「⚪⚪門人」と別の師範の弟子であることを説明書きとして付け加えられています。江戸時代、堅苦しい宗家制度などごくごく1部の流儀にしか存在しなかった証拠です。
宗家を現在名乗っている流儀は、江戸時代に自分の系統のみが宗家として存在した証拠を示す義務がある。ないのなら宗家を名乗る資格など無いことを自覚すべきです。
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三日月の竹内家には、荻野流以外に心極流の免状が伝わっています。
花火の伝書
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江戸期には、砲術が花火と共に伝わるのが普通だったそうです。

続いて薬法
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竹内 六太郎宛の物ですが、どういう経緯か、竹内家には、これより大分古い人宛の免状が伝わっています。
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「安東 村右衛門様」と書かれています。(安東村 の右衛門様宛と勘違いしていましたが、師匠からご指摘をいただきました。安東さん宛でした。)
この免状が伝わった経緯がわからないので何者かわかりません。

三日月藩では、米村流と荻野流の砲術が学ばれました。
竹内家には、竹内 六太郎が授与された荻野流の免状が薬方を含めると五巻保存されています。
その中から系譜も書かれている目録をご紹介します。
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系譜は、まだ詳しく調べがついていません。
三日月の日岡八幡神社には荻野流(荻埜流)の奉納額が掲げられています。しかし、この中には、竹内を含め免状の中にある人達の名前は見つかっていません。
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三日月の竹内家には、変わった槍の絵図が描かれた伝書が伝わっています。
流儀名が書かれていません。
しかし、系譜を見るとこれが山崎藩藩士「丹波 三郎」から竹内 仙之助に出された物だとわかります。山崎藩と三日月藩の武術交流の深さがわかります。
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丹波三郎は、10石2人扶持を貰っていた山崎藩の中士でした。
実は、この「丹波 三郎」は、「竹内 仙之助」が天保年間に行った廻国修行で試合をした対戦相手でもあります。
「丹波 三郎」は、何故か義経流と言う東北の流儀を修めていました。
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東北で学ばれた義経流は、今のところ山崎藩の記録でも見つかっていないので、「丹波 三郎」が独自に学んだものと推測されます。しかし、もしかしたら東北の義経流とは、縁もゆかりもない播州発祥の同名異流の可能性も当然ありますが。
それはともかく、この「丹波 三郎」と「竹内 仙之助」。この時の試合でよほど気があったのか、それとも「竹内 仙之助」が敗れたのか、元々友達だったのかは知りませんが、ともかく「竹内 仙之助」は、天保の試合のあとに「丹波 三郎」からこの免状をもらっていることがわかります。「竹内 仙之助」は、直心影流剣術と祭神流槍術を修めて廻国修行を許されるほど優れた武術家でした。廻国修行は、その旅費を藩が負担してくれると言う厚待遇ですから、「竹内 仙之助」が三日月藩でトップクラスの実力者であったと言えます。その「竹内 仙之助」が頭を下げて習うのですから、対戦相手であった「丹波 三郎」の実力も相当優れていたのでしょう。。

更に面白いことにこの「丹波 三郎」の子は、養子で赤穂藩種田流槍術師範「飯尾 精之進」の弟と言うのだから、驚きです。
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画像は、赤穂藩種田流槍術師範の「飯尾 精之進」を讃える奉納額。(相生市にある若狭野八幡神社に掲げられています。)

三日月藩~山崎藩~赤穂藩の槍術は、この「丹波 三郎」を中心に繋がっていた一面もあったのです。この関係性は、この伝書と山崎藩分限帳のお陰で判明しました。
我々武術家が正しい武術史を知ることが出来るのも、全て古文書を保管して下さった人のお陰です。

経緯は、不明ですが竹内家には、稲垣文五郎の「一刀流兵法目録」が残されています。
明治26年11月 野村政行より稲垣文五郎が授かったもの。
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三日月藩の歴代藩主が祀られている「列祖神社」には、明治36年に掲げられた演武会の奉納額がありますが、そこに「一刀正伝無刀流」が演武された事が書かれています。
しかし演舞者だけでなく後見人の中にも稲垣文五郎の名前はありません。
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