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入牢してから弥太郎は勉学に励みます。
父宅の牢内では次第と監視が緩み家族や友人を通じて外部情報が弥太郎のもとへと届くようになり、当時にわかに動き出した尊王攘夷論を支持するように変わっていきます。

日本各地で尊王攘夷派が活気つきだし、事態を重く見た徳川幕府も態勢の立て直しが必要になります。
嘉永6年6月にペリーが去った後、幕府はさらに「海外の脅威(開国問題)」を考えなければいけません。
海外の脅威に対抗する武力で必要になるのは、刀や槍ではなく大砲です。
そのために幕府は天保13年に逮捕され追放となっていた高島秋帆を釈放し、10月1日に洋式砲術の採用を布告する。

これが出石藩の対応の変化とつながります。
西洋流を学んだ多田弥太郎の提案や防衛思想が幕府の行った安政改革、文久改革と相通じるものがあったのです。
ちょうど出石藩も時代に合わせた改革を迫られる中、弥太郎と一騒動起こした堀親子が出石藩主仙石家の跡継ぎ問題に口をはさみ、邪魔になってきていました。
そこで藩主仙石久利の命により拘束し、堀親子を切腹に追い込みます。
さらに堀親子との戦いに敗れ入牢した弥太郎を開放します。出石藩に初めて高嶋流(西洋流)砲術を試射した上に切腹させた堀親子と対決し敗れた多田弥太郎こそ、
堀親子を始末した後の先導役にふさわしかったのでしょう。
高嶋流(西洋流)として多田弥太郎は、文久3年(1863年)二月に二十俵二人扶持をあてがわれ返り咲き、小姓組に編入、弘道館勤めを命じられます。
しかし、その時にはすでに弥太郎は尊王攘夷派になっていたのです。
その後、「生野の変」を画策し事件を起こします。(詳しくはここでは省きます。ウィキペディアでも見てください)

この生野の変は失敗に終わり、多田弥太郎は、京都に潜伏するも出石に残した家族との連絡を出石藩に追跡され、逃亡途中であっさりと捕らえられてしまいます。
多田弥太郎の最後はとても哀れなものです。
湯島逗留中に捉えられた弥太郎は籠に乗せられて、どういうわけか豊岡から出石経由を通らずに遠回りして、円山川を渡って浅間山から浅間坂へ導かれて殺害されます。
記録によると生野代官所の支配下の浅間坂頂上が出石藩との境目でしたが、ここで弥太郎を担ぐ籠を下すと、三人の剣士がぐるりと囲み、一斉に襲い掛かり弥太郎を殺します。
生き絶え絶えの弥太郎。彼の最後の言葉は

「今にわかる」

だったそうです。

弥太郎の遺骸は、塩漬けにされ出石に運ばれ、幕府検視まで1年以上もの間塩漬けにされたままだったという。
あまりに無残な殺され方に私怨を感じます。出石藩重役にとって混乱を招き、多大な犠牲を出した多田弥太郎は許せないものだったのでしょう。
しかし、これが多田弥太郎を拾い上げた藩主仙石久利の怒りを買い、多くのものが処罰されます。
実は当時の藩主は勤王方にかなり傾いていたと推測されます。

なんにせよ出石藩が時代に合わせて大きく荒れた、そのトリガーになったのが多田弥太郎と高嶋流(西洋流)砲術であることは間違いありません。
朝来市の粟鹿神社にある奉納額は、その時代の証明者かもしれません。
朝来市の一部は出石藩領であり、また「生野の変」が起きた場所でもあるからです。
あまりにも血なまぐさい高嶋流。この文字の消え失せた高嶋流奉納額はそれらと何か関係があるのでしょうか?とても興味深いの一言に尽きます。
朝来市に調査を依頼してみようかと思います。
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出石藩の記録「御用部屋日記」には多田弥太郎が堀親子との戦いに負け入牢していた間の高嶋流(西洋流)の記録が残されています。

※安政2年(1855年)6月17日
御意により高嶋流を御家流に
「高嶋流之儀は深趣意有之、家流に致し候得は、家来一同末々迄出陣に鉄砲を持候程之者江は学せ度、尤壮年之者厚世話遣し、末々のものも同様に付き
相願候は引立候様一同江無急度可申聞置候、追而趣意之程は可申出候也」

(多田弥太郎は、入牢しているので自身が学び出石藩へ伝えた西洋流(高嶋流)が藩の御家流になった恩恵を受けられなかった)

※安政4年(1857年)12月24日
藩主、高嶋流引き立てを命じる
「左之趣於御前被仰付候、但、御用人御目付江申付置候事

仙石織人
磯野逸騎
荒木頼母
岡部長左衛門

高嶋流引立之義先般堀新九郎江申付置候通、以来者新九郎同様相心得厚く引立可申事 堀新九郎

此度織人始一統江右之趣申付候間、其旨被相心得、申合此上厚く引立可申事」

(この時のお目付に多田弥太郎が対決を望んだ家老「荒木頼母」と問題の根源である「堀新九郎」の名前があり、多田弥太郎の功績は完全に奪われたことが証明されています)

※安政5年2月24日
高島流調練実施につき、町方へ申し触れ

「町方へ
当春野外高嶋流調練御覧被仰出候付而は、町方之者共中には種々取沙汰致し、他向江も申触候哉に相聞候、右は御家中之内高嶋流心懸候向斗調練致し候を
御覧被遊候事に候間、彼是と不取留儀共申触間敷候、勿論御覧之事に候間、町方拝見に能出候族子共に至迄、礼儀正敷猥け間敷儀無之様急度相嗜可申候、
万一心得違之族有之に於ては、急度申付方も有之候間、此段も相心得可申候、尤其節火之元別而入念可申事
右之通町方江相触候間、御家中に而も其旨相心得、子弟併召仕に至迄可被申付置候、
右之趣御家中江各○可被相達候、以上 2月24日 御目付中 磯野逸騎」

(さらに出石藩は、尊王攘夷運動や開国問題に合わせて西洋式大型砲の調練(つまり多田弥太郎が伝えた高嶋流)に励みます。砲台を設置し、準備しますが、この調練が実現するのは文久のことになります。

我が身が撒いた種とは言え、弾圧にたまりかねた多田弥太郎は、出奔し中川家(出石藩藩主仙石家の親戚で仙石騒動の時に後見人になった家)の江戸屋敷に駆け込んだ。
「出石藩堀新九郎・鯉助親子による政治専売」上書を持って。

出石を出て中川家(漫才コンビの名前)の江戸屋敷に駆け込んだ多田弥太郎の持っていた上書の内容は、専横、おごり、えこひいきを訴えるものでした。
その内容は、かつて仙石騒動のときに左京反対派が挙げた条々、第2次仙石騒動の時に関口齢助攻撃の理由に挙げた条々の文脈に極めて似たものであったそうです。
多田弥太郎は、出石藩の泣き所を詳しく調べ上げた上でこの情緒を作成したものと思われます。
このような訴えを起こされては、中川家も黙っておるわけにもいかず、多田弥太郎を屋敷にかくまい、そのうえ多田弥太郎の求めに応じて家老「荒木頼母」を呼び寄せて対決させることにした。
荒木頼母は、江戸につきながらも病気を理由にこれを断ります。
これを好機と見たのか多田弥太郎は、今度は、出石藩に「大目付の設置」「もみ消し防止のために家中の者が藩主に訴えを起こしやすいようにしてもらいたい」「いきすぎた礼法を取り払ってもらいたい」などの三ヶ条をまず提出し、
その後、仙石讃岐守に言上したいとさらに5か条を作成し提出する。その中には、手当金の不平等、生野代官所からの要請を藩が断ったことまで書いてあったそうです。

間を取り持つことになった中川修理大夫は、出石藩に使いを出して事実確認をとった。
すると
「藩の政は決して堀親子の考えで動いているわけではない」
「そもそも多田弥太郎は、砲術師範太田彦太夫の門人でありながら、師に相談もなしに西洋流を習ったばかりか、試射を願い出て実施し、門弟から嫌われ者となっている。しかも太田彦大夫は、西洋流をないがしろにした事実はない。むしろ門弟に西洋流を習わせてその稽古に励んでいる」
以上の返答とともに多田弥太郎の引き渡しを求めてきた。
修理大夫は、「まずよく吟味してからのこと」と、一度はこれを断ったが、その後の調べで上書作成の相談は誰にもせずに祐筆勘定方「高橋平五郎」に清書してもらっただけ。さらに件の生野からの要請は7人の生野地役人からのことであることが分かり、多田弥太郎を匿う必要がないことを知った。

6月12日に弥太郎は、江戸西久保の出石藩邸内に作られた3畳間の座敷牢(弥太郎のために急遽作られた)に入れられた。
そこから弥太郎への吟味が始まる。
しかし、弥太郎の堀親子が藩政を独占しているという言い分は、確証を持たないものであったがために、ついに弥太郎は観念して「心得違いでありました。穏便な処置を願う」と認めた。

さて、この弥太郎という人物は幼少期より優れた才能を持つ人物として知れていたが、その分、人間性に問題があったことも伝えられている。
その性格を証明するのが牢内に入れられた多田弥太郎が今回の事件で出石藩との間を取り持ってくれた中川修理大夫への手紙でわかる
その内容は
「座敷牢は狭くて風通しが悪いからもっと過ごしやすい所へ移してくれるように仙石家に口利きをしてもらいたい」とある
さすがの中川修理大夫もこれには立腹し「吟味を受けて牢に入れられたものがそんなわがままを言うとは何事だ」と叱りつける。
しかし、この修理大夫、心優しい人であったようで弥太郎のために出石藩に弥太郎の要求を伝え座敷牢に風通しが良くなるように窓を作らせている。
さらに多田弥太郎
「63歳になる父が今度の件で心を痛めているので座敷牢を父邸宅内の座敷牢に変更できるように取り計らってもらいたい」と伝える。
牢に入れられた人間が自宅の牢へ移してほしいと頼むのだから、めちゃくちゃな話である。が、修理大夫はのちに、これもかなえてやるのだから恐れ入る。
それとも、多田弥太郎とはそれほど魅力のある、もしくは将来性のある若者であったのでしょうか?

なんにせよ弥太郎は出石に戻されて暫くの間は藩の牢に入れられるが、その後、願い通り父宅内老屋敷に移され、長い牢生活を送るのでした。

試射を無事終えた西洋流砲術家「多田弥太郎」は、それまで出石藩を支えてきた砲術家の恨みを買うことになる。
理由は二つ
一つ目は、当時の兵庫県下の藩で大砲を所持していたのは明石、尼崎藩くらいのもので、そんな情勢の中で出石藩が大砲を打てるということは名誉なことであり、藩主は大いにこれを歓迎したから
二つ目は多田弥太郎は、出石藩の太田彦大夫(異風流砲術)の門人でありながら師範に尋ねもせずに砲術の試射を藩主に願い出たから

「出る杭打たれる」という逆恨みと自分の師匠に対する敬意も持たないという自業自得が生んだ事態であった。

まず彦大夫の門弟たちは、問題の大砲が試射の最中に割れてしまったことを取り上げて「このたびの試射は失敗した」と嘲笑して弥太郎を弾圧しました。
この割れた理由も師匠を通さずに試射を願い出ているので藩の援助を貰えずに自費政策の木製の砲になったためです。
彦大夫門弟たちの中には出石藩の実力者「堀鯉助」がいました。鯉助の父は、新九郎と言い天保14年(1843年)8月の第二次出石騒動が発覚した際に
中川・阿部・九鬼三侯の推薦を受けて年寄筆頭に任ぜられた実力者でした。
鯉助は、家督相続の際に新九郎の名を襲名する。この時、家の禄高は500石にまで膨れ上がっていた。家督を息子鯉助に譲った後も父新九郎は、出石藩の反省に参画する。
弥太郎の敵はあまりにも大きかった。
藩内では弥太郎は窮地に立たされます。
弥太郎が海防意見書、火器改良に関する書物、自製の大砲を藩主に献上しようとしても、裏から手を回されて藩主に届けられることはなかった。

さらに彦大夫(異風流砲術師範)自ら西洋流砲術の師範となり、藩所有の大砲を永遠に借り受ける。次に1853年には西洋流大筒「ホウイッスル」鋳造を命じられ、その後、西洋流砲術の試射を藩主の前で行い、褒美をもらった。
もはや藩の中に弥太郎が師範として生きる道は閉ざされていました。
さらに藩内だけではなく、他領へ出ての指導も禁じられます。
生野銀山のある生野代官所から砲術指導のために多田弥太郎を講師に来てもらいたいと頼んでも出石藩はこれを許さなかった。
生野銀山は、一揆も起こる場所なのでそれを断るとは、相当に熾烈な確執です。

たまりかねた多田弥太郎は、出奔し中川家(出石藩藩主仙石家の親戚で仙石騒動の時に後見人になった家)の江戸屋敷に駆け込んだのです。
「出石藩堀新九郎・鯉助親子による政治専売」上書を持って。

中村英夫先生からいただいた資料によりますと出石藩では西洋流(高嶋流)以前は、長門流と異風流の砲術が学ばれていました。
砲術師範には、長門流「太田忠兵衛」と異風流「太田彦大夫」の二家が師範家として存在していたことが「御用部屋日記」にしるされているそうです。

1844年(天保15年)八月五日には、忠兵衛が対面所の庭において砲術の試写会を催していた。
藩の要人が閲覧し評価を受ける。
長門流98人、異風流26人の合計124人。
続いて彦大夫が大書院の庭に於いて人数は48人。

この彦大夫の門弟に多田弥太郎がいた。彼は、この時、大阪にいて江戸への遊学願いを出していて参加していない。
多田弥太郎は、出石藩の桜井家の養女の息子であったために帰藩まもなく出石藩校「弘道館」の寮長に抜擢される。
多田弥太郎は、その励み具合を評価されて23歳の時に馬廻り席に格付けされました。
その後、1848年には長崎に出て西洋流(高嶋流)流祖「高嶋秋帆」の弟子、「大木藤十郎」に西洋流砲術を学ぶ。
その翌年、1849年に帰藩して藩主へ大砲試射を願い出て、秋の収穫ののち10月17日にこれを行うことを許される。
この日は、藩主から要人も集まり、見物する。近郷、近在のものや豊岡、宮津、田辺、因幡藩からきた侍も見学した。
期待のほどがうかがえる。

大砲は、菅谷川尻の室の台に据え付けられた。狙いは細見の志谷。
試射の途中で大砲は割れてしまったが、演武はおおむね成功し、藩主は大変に満足したようで白銀2枚と紋服を与えて労をねぎらったという。
しかし、これがそれまで出石藩砲術流儀であった長門流と異風流との軋轢を生みます。