以前にご紹介しました高砂神社の奉納額は、やはり姫路藩の砲術奉納額だった事が分かりましたので、詳細をご報告します。


「高砂市史」によりますと嘉永6年(1853年)の6月にペリーが来航するという大事件が起きます。
姫路藩に限らずに諸藩の海岸防衛のために砲台が築かれます。
姫路藩には文久3年に高砂の向島の南端に台場を築き、3門の大砲が据え付けられました。
この大砲は結局、火を噴かぬまま明治の開国を迎えたそうですが、幕末の世、日本全国の藩は砲術による防衛に熱を入れていたことがわかります。

姫路藩の「南蛮流関派」大筒師範の「小屋弐貫次博長」は、安政6年(1859年)に76歳を迎えます。
師範は健康な体は高砂神社の神恩と歓び、門人たちと共に撃ち当てた的を額にして、流儀が末永く繁栄することを祈ったそうです。
文は、姫路藩の国学者「秋元 安民」が撰し、字は井上義武が書いた。とあります。

しかし、ご覧の通り現在は、文字も的も消え失せており、ただの板が奉納されているようなものです。
私はたまたま、三日月藩の砲術奉納額を見ていたので、このノッペラボウの奉納額を見て何となく砲術奉納額と思ったのですが、
高砂市史編纂した人は何を見てこの記録を書いたのでしょうか?
もちろん、姫路藩の砲術師範の師範の記録ですから当然、しらべるなら姫路藩の記録しかありません。

「姫陽秘鑑」を調べると上記の話に関連する記述があります。
安政4年五月11日に大砲と槍剣の試合をすることを諸師範に伝達されたことが記録されています。その師範達の中に小屋弐貫次博長の名前もありました。
高砂神社には、砲術奉納額と共に槍術の奉納額が飾られていたことは、以前にご紹介しました。
同じ様式でまったく同じサイズの奉納額なので同時期の姫路藩の槍術奉納額であっているかと思います。

砲術奉納額と同じく、文字が消えているので詳細はわかりませんが、姫路藩が剣槍の試合を認めたのは、安政4年3月18日のことですから、時期的には、近いと思います。
姫路藩の槍術は、無辺流と樫原流、淡路流だったことは、以前、ご説明しました。
樫原流は鍵槍の流儀なので、この奉納額は、淡路流か無辺流のものと断定してよいのではないでしょうか?

さて、どちらの流儀のものでしょうか?
文字の消え失せた今ではさっぱりわかりませんが、姫路市民ならば、姫路藩唯一(私が調べた今のところですが)の奉納額を見学しに高砂神社に足を運ばれてみては?
とても素敵な神社です。
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