素晴らしい事に横井家には以前、当ブログで紹介した山崎八幡神社に掲げられた大嶋流鎗術の奉納額の師範「西川杢之助」と門人「榎元友弥」の免状が残されていました。

まずは師範「西川 杢之助」の免状
こちらは、寛政11年(1799年)に発行された免状で大嶋流の「外物の道」の免状です。


免状には、その由来が記されています。
免状の文中には「大坂玉造口」と言う言葉がよく出てきますが、これは大坂定番の一つです。
大坂定番には、「京橋門」と「玉造門」を警備し、それぞれ「京橋定番」と「玉造定番」と称しました。
横井家には、大坂定番の日記が残されています。
この日記には大坂定番の仕事に当たった山崎藩本多家家中の武士たちの生活が記されています。
後日、詳細をお知らせしますが、山崎藩の大坂定番の勤務の仕組みや武術についても詳しく書かれ、
江戸時代の武士の勤務体系がよくわかる物となっています。

さて、続いて「西川 杢之助」の門人、「榎元友弥」の免状です。
発行年月日は、文化5年(1808年)2月
免状差出人は、当然、「西川 杢之助」。
杢之助の免状が1799年で友弥の免状が1808年なので杢之助が免許を取ってから9年後の事です。



榎元家の家普を見ると面白い事に榎元家は、皆、初めは代々「友弥」と名乗り、そこから家督を相続して「武左衛門」か「武助」を襲名しています。
息子の友弥(武左衛門)が弓術に秀でていたことは書かれているが不思議なことにこの家普には奉納額の事は一切書かれていない。
だから、現時点ではこの奉納額がどのような経緯で奉納された物かはわかりません。
しかし、幸いなことに山崎藩の資料は、あまり失われていないので、今後の研究次第では明らかに出来る可能性があります。
ちなみに家普によると奉納額の友弥は、11石2人扶持だったようです。


さて、西川杢之助と榎元友弥の免状の系譜には、不可解な点があります。
それは、山崎藩の大嶋流鎗術の由来に出てくる「小林幸左衛門」と「岡橋太郎兵衛」の名前が系譜に出て来ないのです。
しかし、西川杢之助の免状より34年前、明和2年(1765年)に発行された横井蔀(山崎藩伝「上村発明流」の免状の主。横井氏の祖先。武術に優れ分家を許された武士)の大嶋流槍術の免状には、
「小林幸左衛門」と「岡橋太郎兵衛」の名前が系譜に記されているので西川杢之助の免状に書かれた由来に間違いはありません。
由来に名前を載せておきながら、系譜に名前を載せていない理由は何故だろうか?と、首を捻ります。ちなみに岡橋太郎兵衛は山崎藩士です。
横井蔀の免状の系譜は、
「元祖」大嶋雲平に始まり、戸田彦左衛門→三宅刑部右衛門→三宅伝十郎→小林幸左衛門→岡橋多郎兵衛→横井蔀となっています。


西川杢之助の免状の系譜は
4代目三宅伝十郎までは同じですが、5代目以降が異なります。三宅伝右衛門→森山伊兵衛→西川杢之助となっています。


西川杢之助に免状を差し出した森山伊兵衛は、小林、岡橋を経ずに三宅伝右衛門から免状を授かっています。
森山伊兵衛は、岡橋多郎兵衛か横井蔀と同年代の人物でしょうが、何者かわかりません。しかし、わざわざ免状に横井蔀の免状に書かれた系譜に付いて記すくらいだから山崎藩の人間ではないでしょうか?
もう少し調べてみる必要があります。
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山崎藩伝 大嶋流1

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