新宮の塩谷家に伝わる上村発明一統流の起請文の中に「八瀬半太夫」という人物の名前があります。
この時代の八瀬家というと龍野藩の大庄屋の名前です。そこで、たつの市歴史資料館の学芸員さんに相談して八瀬家のご住所を教えていただき、お手紙を書くと、先週の金曜日に八瀬家の現・当主の正敏氏から折り返しのご連絡を頂けたので、土曜日のお昼に直接お会いしてお話を伺うことになりました。
折り返しのご連絡の際に、上村発明流の免状かどうかわからないが「陰縄」という巻物がある。ということは、お聞きしていました。

しかし、当日に八瀬家を訪ねると、稽古に使われた棒、木刀、短刀が現存しているということなので、拝見させていただきました。
それらは、感動の品々でした。

6尺棒はもちろんですが、独特の直剣の木刀に、大小の木刀、拵えまでしっかりと作られた立派な短刀(木)、

全てに稽古で生まれる打ち込み傷跡が生々しく残っていたからです。
そして、大小にも驚きました。水月塾「二天一流」で使用する木刀そのままだったからです。龍野藩は「圓明流」が学ばれました。

あとで調べて分かったのですが、龍野藩の圓明流は武蔵に直接習った八瀬家が伝えたものでした。だから、八瀬家にその木刀があって当然と言えるでしょう。しかし、その時はわからなかったので、大きな衝撃をうけました。
(ちなみにお隣の姫路藩も、武蔵が姫路藩に仕えた際に「神道二刀流」を伝えています。)

さて、その八瀬家ですが、奇遇なことに元々は、我が「西躰家」と同じ京都の出身でした。応仁の乱に敗れた八瀬家は、赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した「嘉吉の乱」。その少し後に播州にやってきて、赤松家から1万石を任されていたようですが、その後は帰農し、龍野藩の大庄屋になります。元々、相当な家柄の武士だったので、かなり位の高い人だったようです。
龍野藩では、大庄屋の郷目付として罪人を取り押さえ、裁くこともしていました。この頃、罪人が座らされた石も現存しています。また、家のすぐ近くには牢屋敷があり、大庄屋の近隣には牢屋番頭が住んでいたそうです。

そんな大庄屋さんですから、「陰縄」の巻物があるのも納得です。
さて、その影縄ですが、これは現在、たつの市歴史民俗資料館に保管されています。八瀬氏と共に歴史資料館を訪れ、巻物を拝見すると、これが戸田流の巻物であることが分かりました。



戸田流は、林田藩でも学ばれた流儀であることは、私が所蔵する林田藩伝戸田流の免状でわかっていましたが、八瀬家は、同じく林田藩の大庄屋三木家とも婚姻関係を結んでおり、武術以外でも深い交流があることが分かりました。

八瀬氏は、陰縄以外にも多くの古文書を歴史資料館に提供されており、地域の古文書研究に貢献をしておられます。
ちょうど、いま行われている「朝鮮通信使展」の資料も八瀬家から提供されたものです。
こういった歴史を大事にしてくださる人達が古文書を残してくださるおかげで、我々は、古流の歴史、郷土の歴史を知ることができます。本当にありがたいことです。
スポンサーサイト

水月塾本部での稽古

山崎藩伝 「楊心流静間之巻」