さて、それでは詳しい内容にふれてみます。
Wikipediaによりますと、初代三間与一左衛門は、「流祖は天正5年出羽国佐竹氏に仕える」となっています。出羽国は、現在の山形、秋田県があったところです。
しかし、赤穂藩伝の水鴎流では、全く異なります。「肥州唐津士」と書かれています。
現在の佐賀県ですね。

赤穂藩伝水鴎流は、三間与一左衛門から直接習った都筑安右衛門が伝えたもので間違える可能性は低いように思います。また代数や年数もそこまで時間がたっているわけでもないので、変質しにくいと思います。
由来についても、三間与一左衛門が「大円想の中に白鴎が無心に浮かぶ姿を想見し」とありますが、赤穂藩伝の伝書には、ある夜の夢の中で翁の啓示を受けたとあります。「或夜 夢一老翁曰 江南野水緑 於天中有 白鴎閑似我」

更にWikipediaには、「(浮かぶ姿を想見し~)忽然と大悟し、天の二十八宿に篭って居合法形二十八本を定め、これを基とし諸般の武術の妙を究めた。」となっていますが、実際の伝書には、表17ヶ条を表の居合とし、奥儀12ヶ条とし、合わせて29ヶ条となっています。28宿の事など当然、書かれていません。
当然、Wikipediaと形は、何一つ一致しません。

また、赤穂藩伝には、水鴎流が片山伯耆流との関係性を匂わすように書かれています。
赤穂藩伝の伝書は、三間与一左衛門から直接習った伝系であるのと同時にこの伝書が1740年です。

以上の事から、推測するにWikipediaに書かれた情報は、赤穂藩伝「水鴎流」とは、無関係の「水鴎流」の情報に思えます。

あとWikipediaには撃剣叢談にも「時に北国浪人三間與一左衛門と曰う者来りて居合を教授す。 」としている情報が書かれています。
全く撃剣叢談は、信頼度の低い古文書であると言わざるを得ない。こんなものを真に受けたら痛い目を見ますね。話し半分に読んで、後できちんと検証しなくては、いけません。
それにしても岡山藩士がこの程度の情報しか集められなかった点を考えると、天保の頃には、岡山県内の水鴎流は、絶えていたのかも知れません。

因みに、姫路藩にも都築姓が代々仕えているので、姫路藩でも水鴎流が学ばれた可能性は、あるかもしれません。
因みに姫路藩藩士「都築 与五右衛門(300石 御小姓頭)」が無辺流槍術師範であった記録があります。
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