赤穂藩伝「去水流」の免状は3巻あり、いずれも流祖都筑安右衛門によるものです。
享保14年に村上安之丞(村上貞八のこと)へ発行しています。
水鷗流の話に戻って申し訳ないですが、要するに村上貞八の時代に都筑安右衛門は健在だということです。隠居前ですが
免状や形の内容が水鷗流初代三間与一右衛門と違いはないでしょう。

さて、去水流の内容にもどりますと、いつも通り撃剣創談の記述は出鱈目です。
また、これを基にしたのかネットで散見される去水流の記述も本来の去水流とは、かけ離れてしまっています。
撃剣叢談には以下の通りの紹介分がある。
「去水流は、新影(流と)宝山流を合わせたる流れなり。去水は法の字を斥たるにや、其祖浅田九郎兵衛門人に都筑安右衛門と云うものあり。
多年宝山流に心力を委ね、浅田門下に及ぶもの無きほどなり。ここを以て家を望みけれども九郎兵衛許さず、大いに望みを失いて宝山流をやめ、
林太郎右衛門という新影流の師と計りて一流を創め、宝山如水を改めて新影去水流と云て人に伝授したり、(宝山流の浅田)九郎兵衛是を聞きて大いに憤り…以下浅田が二人を懲らしめる話になるので略する」

すべて出鱈目です。
去水流は「法」の字を基に出来てはいないし、都筑安右衛門の師匠は、林太郎右衛門ではなく林多左衛門です。
実はこの世代の津山藩士に「浅田九郎兵衛」も「林太郎右衛門」も存在しない。
浅田姓も林姓もこの世代の津山藩士におられるが、上記の人物はいない。
林も都筑も家格は、上なので浅田が喧嘩を売るとも思えない。

都筑安右衛門の師匠である「林 多左衛門」は郡奉行で元禄4年4月6日に亡くなっておられます。
林 多左衛門は水鷗流元祖三間与一左衛門と同世代の人物というわけです。
去水流の免状を見ればわかりますが、林多左衛門は、新影流の先生ではないし、都筑安右衛門の作った去水流も宝山流とは無縁の流儀だと私は思う。(形名は、一応ほんの数手程名前が重なるが、さほど珍しい言葉でもないので、これで新影流か宝山流かと決めるには、弱すぎると思います。)
撃剣叢談に「新影流」と書かれているからと言って信用してはならないのです。それが本当は片山伯耆流かもわからない。関口流かもわからない。
検証する前にそのまま正史のように扱うと後で必ず痛い目を見ます。

また同様に水鷗流の三間与一左衛門が浅田九郎兵衛に勝負を挑まれたときに九郎兵衛がどうやって勝つつもりか語った話を聞き及び「九郎兵衛は私が及ぶ相手ではない」とあっさりと負けを認める内容が書かれていますが、存在しない人物と実在の人物は戦うことができない。恐らくは、後の世の人が宝山流を勝たせたいがために作ったホラ話です。撃剣叢談が書かれた時代、すでに津山藩は森家のものではなかったので、調べることができずに聞いたままのほら話をそのまま書き記したのです。
撃剣叢談によりますと九郎兵衛は、居合の三間与一左衛門に抜かせて勝つと豪語したそうだが、居合と剣術をそのままの想定で試合を行ったというわけです。
実に下らん!


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