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去水流で検索をかけると高確率で「深尾角馬」と言う人物がヒットする。
この人物は、鳥取藩の武術の主(ぬし)と言っても過言ではないかもしれない。
丹石流、去水流、東軍流、卜伝流、神道流、新陰流、タイ捨流、岩流、戸田流を修めたと言う達人のようです。

しかし、去水流に関しては時代的な疑問が少し出てきます。

都筑安右衛門は、津山藩が改易した元禄10年(1697年)までの分限帳に既に名前があります。
小姓で250石ももらっています。小姓で250石ならば、父が亡くなるか隠居により家督を相続したのでしょう。それでも250石とは、大変なもので藩主からの寵愛の程もしれます。浅田九郎兵衛が喧嘩を売るとは、思えない。
彼は、津山藩改易後に赤穂藩に召し抱えられ、享保15年(1730年)に隠居するまで働きます。

都筑安右衛門の師匠は、林多左衛門は元禄4年(1691年)に亡くなります。
師匠 林多左衛門1691年
弟子 都筑安右衛門1730年
都筑安右衛門は、師匠亡き後、39年勤めたことになります。師匠と弟子の差としては、何の問題もありません。
きっと林多左衛門にとっても水鴎流の三間与一左衛門にとっても都筑安右衛門は可愛い子供のような存在だったでしょう。

しかし、深尾角馬の場合は、林多左衛門より9年早い天和2年(1682年)になくなっておられます。
都筑安右衛門は、彼の死後、48年森家に勤めたことになります。
それでは、深尾角馬が都筑安右衛門に去水流を習ったとき、都筑安右衛門は、何歳だったのか?と言う問題が出てきます。12才ならば、隠居した年は60才なのでさほど問題ありません。しかし、深尾角馬は、51才で亡くなっています。12才の子供に習うことはありえない。
都筑安右衛門がその時仮に22才ならば、70才で隠居と言うことになります。(深尾角馬の修業年数は不明なので好意的解釈で一年未満として計算から外します。)
江戸時代にしては、かなり高齢ですが、可能性は、ゼロではないとは思います。しかし、深尾角馬の年齢と都筑安右衛門の年齢を考えると少し疑問が生じるでしょう。

さて、都筑安右衛門の去水流についてもう一つ疑問があります。それは、やはり、師匠の名前が林太郎右衛門となっていることです。彼は、都筑安右衛門の新陰流の師範であるとされています。(実際は違う。)
津山の林家で最も彼に近いイメージの人として、都筑安右衛門と同世代の人で津山藩改易後に三日月藩に行った「林太郎兵衛」の名前が浮かびます。
林太郎兵衛は、森助太夫と言う人物の子孫で森助太夫は、森家に仕えるさいに藩主に遠慮して木の文字を1つとり林姓に改め林九左衛門と名乗ります。
林太郎兵衛は、その林家三代目にあたり、津山新田藩の一代限りの藩主で後に三日月藩初代藩主となった森長俊に仕えた人物です。

林太郎兵衛は、竹之内流腰之廻の達人で、祭神流、直心陰流の達人であった井上源左衛門と並び三日月藩の武術の祖と呼ばれています。
林太郎兵衛の名は、三代続くので後に三日月藩の御流儀直心陰流を学んだことは、想像に固くない。
林多左衛門が後の世にこの林太郎兵衛と混同され林太郎右衛門になった可能性は、とても高い。

余談になりますが林家、井上家と同時に森家に召し抱えられた一族に天心流の井上壽之丞の父親の今村又右衛門の一族がいます。
三家の祖は、四百石の高禄を貰っていたにもかかわらず、元禄の津山藩分限帳には、名前が載っていないところを見ると、この三家は、本家津山藩に仕えた都筑安右衛門とは、違い、津山新田藩に召し抱えられていたことがわかります。

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四月1日の稽古

赤穂藩伝「去水流」